おとぎをあゆむ
以前からHPをご覧頂いてる稀有な方の中はお気付きかも知れませんが、
実はこのような試みは3度か4度目の正直…。
表現している世界についてのご質問を頂く機会が増えてきたのですが、端的に説明が難しいので、ここに書いておけば展示会場で口が回らなくなっても何とかなるかな…という下心も少しありつつ…。
今度こそ細く長く続けるため、更新は不定期になるかと思いますのでお暇な時に覗いてみて下さい。
今回は『おとぎをあゆむ』というテーマや日々表現している世界のことについて少し。
現在開催されている個展のタイトルにも使用していますが、この言葉は私自身の制作活動の大きな軸になっているテーマです。2018年に修了作品として制作していた人形劇のタイトルを考えていた時期に出現したのが始まりでした。
存外すんなりと出現しましたが、その時から「この言葉とは長い付き合いになるな…」という予感が当時からあったと記憶しています。
幼少の頃からこの現実世界とは別の世界の存在を感じながら生きており、
その影は姿を見せる時もあれば、気配や予感として自分の元へ度々やってきて、その世界の断片やそれにまつわる物語を見せてくれていました。
一人っ子であった事や、叔母の影響で人形やぬいぐるみ遊びが好きであった事も影響してか空想癖も物心ついた頃から持ち合わせていましたが、この空想という行為はあくまで能動的なもの。
そのため別の世界の気配を感じる事とは別物で、“幻視”というのもニュアンス的に近いのですが、一番近いのは“想起”であると今は考えています。
というのも基本的に、この別の世界を“思い出す”ように見るからです。
想起とは過去の体験や出来事を思い起こす過程のことですが、この言葉をちゃんと認識したのは高校の倫理の授業、ギリシャ哲学について学んでいた時でした。
そこで話されていたのは私たちが学び得た知識は実は予め自らの魂に内在しており、輪廻を繰り返すその魂が復活の度に誕生の衝撃で忘れてしまっている…というもの。
当時はまた違った意味で魅力を感じていましたが、暫くは何となく素敵な考え方だな…という認識で特に深く考えることも無く時が過ぎてゆきました。
その後、修士課程に進学し、諸々の経緯や詳細ははきっといずれ恐らく書くとして、この想起される世界の研究を始めます。その時に“想起”という言葉が浮上し、この考え方を前提にするのが適切であると思い至りました。
夢にしろ無意識領域にしろ、はたまた別の場所にしろ、いつかのどこかで私はこの世界を生きていて、その記憶を取り戻しているのだ、と。
それから、この別の世界の事を暫定的に《内的世界》あるいは《内的おとぎ世界》と呼び、これを想起させるものたちを《物語の扉》と名付け収集を始めました。その記憶たちは日常のふとした瞬間に現れる扉によって呼び起こされます。私にとって現実世界を日々生き、あゆむ事は同時に内的おとぎ世界をあゆむ事でもあるのです。
このイメージから『おとぎをあゆむ』というテーマが生まれました。
物語の扉は様々な形(空に浮かぶ雲や、壁の染み、道に落ちている葉っぱ、或いは内側から甦るもの…)で前触れなく現れます。収集方法にも幾つか種類がありますが、その辺はまたいずれ。
兎にも角にも扉の収集を始めると、徐々に一部の収集物たちが特定の出来事(物語)のまとまりとして分類が可能になったり、別の物語への関連が見つかったりしてしていきました。
そして次第にほんの一部ではあるけれど、常に靄がかっている内的世界の様子が徐々に見えてきたのです。
新たな世界を生み出すための探求ではなく、自らの内なる物語世界を考古学のように掘り起こすような探求なのです。この収集・考察をライフワークとして日々続け、基本的にその過程で明らかになった内的世界の住人や物語たちを造形や絵画作品として制作しています。
今回、個展では内的世界の中でも詳細が比較的見えてきている物語や住人たちの作品を集めました。
ギャラリーに入って左側には神話に近い古い時代、右側はその後の世界の住人や情景にまつわる作品を展示しています。
展示作品の全ての内容は補完出来ていませんが、少しメモやスケッチなども置いているので、それを少し参考に見て頂いても楽しいかなと。
(このメモやスケッチは未だ感覚的には個人的なものでもあるので、会場限定で…と思っていますがお見せ出来そうなものはまた別の記事で紹介します。)
基本的に内的世界の探求において私が意識的にどうこう出来る事は殆どありません。
意図的に作り出す、“設定”というものが存在しないからです。そのため私自身、未知の部分が多く、在廊時などにご質問頂いても回答できずモヤモヤさせていまうことが多いかもしれませんが、それも含めて楽しんで頂けたら嬉しいです。
それでは、また次の記事で。
misumasenue
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